タイの機内食♪♪
写真は数年前にタイに行った時の機内食ですが、この、米と一緒に出てきた、米の左側の緑掛かった黒色の食べ物は極めて独特の臭いを放ち、その味は、我々日本人の想像を遥かに越えるものでした。「井戸」のような味がしました。
これまでの人生を振り返りますと、井戸を食べたことはまだ一度もないわけですが、そんな井戸経験の浅い自分でも、かなりの自信を持って井戸味だと断定することが出来ました。食べ始めた時は井戸の放つ特有の下水道臭に圧倒され、スプーンを持つ手が凍りましたが、飢餓に身を任せ、そして自分に「これは旨い、最高じゃないか」と言い聞かせて強引に食べ続けているうちに次第に井戸への理解が深まり、癖のある下水の味が意外と白米とマッチすることに気付き、最後は、無類の井戸好きを誇れる域に到達しました。
一方、米を挟んで右側のオレンジ色の食べ物は、こちらは、さらに想像を越えた味をしていました。“肉ジャガ” という料理をベースにして、これを、最もやってはいけない方向に極め抜いてしまった、反骨のマスターピースでした。恐らく我々日本人が全く食べ物として認識していない雑草の類は相当ふんだんに入っていましたし、珍味な食材をグツグツと煮込んでから入念に炊き込み、そそくさと焼き上げてからいそいそと炒めて出してきたんだと思います。食べ物としての評価は最低レベルですが、武器として考えるのであればそれなりの評価が為されても良い代物ではありました。こん棒よりは殺傷能力がありそうでした。
食べ始めた瞬間は荘厳なる肉ジャガの放つ崇高なる腐敗臭に圧倒されましたが、飢餓に身を任せ、そして自分に「これは旨い、絶品じゃないか」と言い聞かせて強引に食べ続けました。しかし、非常に残念ながら、最後まで "肉ジャガ" の魅力を理解することは一切出来ず、決して完食することはなく、吐き気を催したまま終わってしまいました。
これら機内食から学んだことは、先ず一つは、「だいだいの事は気の持ちようでどうにかなる」ということです。「井戸」味というのは普通に考えれば食べられたものではありませんが、食べられると思って食べているうちに、あ、意外と俺井戸好きだわ、となったわけです。
もう一つは、「気の持ちようでは突破出来ない肉ジャガがある」ということです。肉ジャガに限定された話ではなく、さらに一般化できます。この世には、気の持ちようではどうにもならない領域が存在するようです。そしてさらに重要なこと、それは「気の持ちようで変わることか、それとも身体の芯から受け入れられないものか、最初の一口ではよく分からない」ということです。
「井戸」も「肉ジャガ」も、一口目では同程度の不快感を放ち、その段階では、どちらもその時の自分にとっては、にわか受け入れがたいものだったのです。ただしその時の不快感は本質が異なっており、一方は先入観もしくは経験不足によるもので、もう一方は構造的な問題(もはや変えられない自分自身の何か)によるものでした。これらの経験を踏まえ、今後の人生で、何かとても不快な事や不快な物に出くわした時は、先ずは自分の経験の浅さを徹底的に疑い、気分を変えて鬼のように突破や調和を試み、本当に死を感じた場合にだけそれを止めることにしました。
2021/02/17 20:30これまでの人生を振り返りますと、井戸を食べたことはまだ一度もないわけですが、そんな井戸経験の浅い自分でも、かなりの自信を持って井戸味だと断定することが出来ました。食べ始めた時は井戸の放つ特有の下水道臭に圧倒され、スプーンを持つ手が凍りましたが、飢餓に身を任せ、そして自分に「これは旨い、最高じゃないか」と言い聞かせて強引に食べ続けているうちに次第に井戸への理解が深まり、癖のある下水の味が意外と白米とマッチすることに気付き、最後は、無類の井戸好きを誇れる域に到達しました。
一方、米を挟んで右側のオレンジ色の食べ物は、こちらは、さらに想像を越えた味をしていました。“肉ジャガ” という料理をベースにして、これを、最もやってはいけない方向に極め抜いてしまった、反骨のマスターピースでした。恐らく我々日本人が全く食べ物として認識していない雑草の類は相当ふんだんに入っていましたし、珍味な食材をグツグツと煮込んでから入念に炊き込み、そそくさと焼き上げてからいそいそと炒めて出してきたんだと思います。食べ物としての評価は最低レベルですが、武器として考えるのであればそれなりの評価が為されても良い代物ではありました。こん棒よりは殺傷能力がありそうでした。
食べ始めた瞬間は荘厳なる肉ジャガの放つ崇高なる腐敗臭に圧倒されましたが、飢餓に身を任せ、そして自分に「これは旨い、絶品じゃないか」と言い聞かせて強引に食べ続けました。しかし、非常に残念ながら、最後まで "肉ジャガ" の魅力を理解することは一切出来ず、決して完食することはなく、吐き気を催したまま終わってしまいました。
これら機内食から学んだことは、先ず一つは、「だいだいの事は気の持ちようでどうにかなる」ということです。「井戸」味というのは普通に考えれば食べられたものではありませんが、食べられると思って食べているうちに、あ、意外と俺井戸好きだわ、となったわけです。
もう一つは、「気の持ちようでは突破出来ない肉ジャガがある」ということです。肉ジャガに限定された話ではなく、さらに一般化できます。この世には、気の持ちようではどうにもならない領域が存在するようです。そしてさらに重要なこと、それは「気の持ちようで変わることか、それとも身体の芯から受け入れられないものか、最初の一口ではよく分からない」ということです。
「井戸」も「肉ジャガ」も、一口目では同程度の不快感を放ち、その段階では、どちらもその時の自分にとっては、にわか受け入れがたいものだったのです。ただしその時の不快感は本質が異なっており、一方は先入観もしくは経験不足によるもので、もう一方は構造的な問題(もはや変えられない自分自身の何か)によるものでした。これらの経験を踏まえ、今後の人生で、何かとても不快な事や不快な物に出くわした時は、先ずは自分の経験の浅さを徹底的に疑い、気分を変えて鬼のように突破や調和を試み、本当に死を感じた場合にだけそれを止めることにしました。
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