店長ブログ

超力水♪♪

2021/01/31 12:54|コメント:0件

昔、自動販売機で超力水という飲み物が売られていたのを覚えているでしょうか。力水はチカラミズと読みます。好んで飲んでいて、非常に流行していましたが、味を覚えていないです。炭酸飲料でしたがそれ以上の記憶がないです。ネーミングを飲んでいたと言えます。
 ところで最近、右目の眼筋がけいれんしてぴくぴく動くことがあります。眼精疲労にちがいないですが、最近面白いことを発見しました。たまに長めのウォーキングをすると、汗をかいて肉体が活性化しはじめると同時に、目の疲労が強烈に感じられるます。疲労を感じるにも肉体の活性化が必要であるようです。日常的にディスプレイ等を見ることの疲労が、運動した段階で、ようやく疲労として認識されるのでしょう。目元に疲れが感じられる瞬間は気持ちいいです。
 あまりに仕事が忙しいと、肉体の疲労を肉体の疲労として感知することができなくなるのでしょうか。
 橋本治が以前書いていました。サラリーマンは真夏に分厚いスーツを着て平然としているほど、肉体から遠く隔たれている。男に肉体は存在しない。『革命的半ズボン主義宣言』。発表は八十年代か。現代日本において、真夏の男たちは半ズボンを履いて、すね毛をむきだしにしています。ユニクロのハーフパンツは飛ぶように売れます。人間の意識も変わる。
 別の所でだれかが書いていました。男に肉体は存在せず、ペニスだけが存在している。笑える警句ですがもっともかもしれませんね。

コンビニのホットケース♪♪

2021/01/30 12:21|コメント:0件

コンビニレジ横のホットケースは便利です。アメリカンドッグを食べたい時に食べられます。フランクフルトにはケチャップとマスタードをかけますが、付属のプラスチック容器の完成度はすごいです。折り曲げると両方が同時に出てきます。指でパカッとやるだけで、ケチャップとマスタードが肉の上を並走していく、あの高揚感はやみつきになります

 片方は赤黒いケチャップ、片方は黄色に粒の混じったマスタード。あんなに色の違う二つが見事に並走して、二本の線になる。これはケチャップとマスタードを主人公にして青春映画が撮れます。青空を背景に、フランクフルトの上を二人で走れ、みたいな。
 私がよく使うのはセブンイレブンです。ひんぱんに購入するのは、春巻、ささみ揚げ、いももち、です。
 セブンイレブンの春巻は妙にうまいです。小腹が空いたときによく食べますが、あの春巻は小腹にジャストフィットします。
 ささみ揚げも良いです。小腹を埋めてくれます。
 いももち。これは名前からして良いですね。ひびきだけで末永く愛されることが確定しているように思われます。いももちと名付けられた食べ物を憎むことなどできないはずです。速水もこみちと名付けられた人間をうまく嫌うことができないように。へんなひびきは人間の悪感情を脱臼させるのです。
 コンビニのホットケースは良いんですが、気になることもあります。あのホットケースのしくみは店員に手間をかけすぎじゃないでしょうか。具体的なプロセスとしては、ほしいものを口頭で伝え、店員がケースから取り出して、専用の紙の袋に入れて、テープで入口をとめます。この時間が絶妙に無駄。いや、それくらい自分でやるけど、と感じます。
 要するに、スーパーでよくあるシステム。客がトングを使って、ほしいものを自分で容器に入れて、会計だけ任せるしくみ。コンビニじゃ難しいのでしょうか。客側にドアがあって、それが開いちゃダメなのでしょうか。ダメな気がします。自分で取り出せるならどんどんやるのですが。そのへんは率先して動きます。シュッ、パカ、シュッ、みたいなリズムもイメージできています。

さびれた看板♪♪

2021/01/29 19:10|コメント:0件

街の看板を見ていると気付くことですが、黒字と赤字だと赤字のほうが先に消えるように思います。風雨にさらされて、黒字よりもずっと早く消滅してしまいます。
 だから日本の街には、赤字だけが消えた看板があふれています。
うちの近所にある家の玄関に、「猛犬に注意」と書かれた掲示があるのですが、時の経過によって、赤字の「注意」だけが消えています。その結果、掲示には次のように書かれている。
「猛犬に」
 猛犬に、何かを捧げています。母に、娘に、恋人に。書物の冒頭によくある献辞であり、これまでさまざまな書物がさまざまな人間に捧げられてきたが、猛犬に捧げられた書物は見たことがない。
 その近くの古い平屋には、玄関ドアの横に小さな掲示があります。おそらく「引いてください」と書かれていたのだろうが、「引」を赤字にしたばかりに、やはり文字が消えて結果、掲示には次のように書かれています。
「いてください」
 切実です。これは、心が壊れる瀬戸際まで来ている人間の言葉です。街でふと見かけるには、強すぎる言葉です。
 家を出て、コンビニに向かう時、私は「猛犬に」の前を通り過ぎ、「いてください」を右折して、セブンイレブンに入っていきます。
 明日は、「いてください」の前に、いようと思います。「いてください」と言っているんだから、誰かがいてあげなくてはならない。しかし誰も立っていない。あの家のあの扉の前に、誰かが立っているのを見たことがない。非人情の街だ。私は、いてくださいと言われたら、いるよ。ただ、いるだけでいいのなら、私はいようと思います。
 実際にやったら通報されそうですが(笑)

マンガ喫茶♪♪

2021/01/28 20:29|コメント:0件

知人にマンガ喫茶におびえる人がいます。第一に、その人は閉所恐怖症で、四方を壁に囲まれた狭い空間にいると恐怖に支配されるそうです。なるべく開けた場所にいたい。自分の家でも部屋のドアを完全に閉めない。閉じこめられることに異常な恐怖感があるのだそうです。
 第二に、その人はマンガにまったく興味がないのです。マンガと何の接点もない人生を送ってきたそうで、ワンピースもドラゴンボールも進撃の巨人も読んだことなく、当然、マンガ喫茶に行ったこともないそうです。しかし常識として、どんな場所かは知っています。そこに自分がいることを想像するだけで怖いそうです。
 閉所恐怖症の人間にとって、マンガ喫茶の小さなブースに閉じこめられる感覚は怖ろしく、あわてて外に出ても、壁一面には大量のマンガ、マンガ、マンガ……。何の興味もないものが、空間を埋め尽くすようにびっしりと棚に詰め込まれていて、逃げ場がない。拷問でおかしくなるそうです。
 まさに恐怖の二段構え。閉じこめるだけでなく、偽りの解放の先にマンガをみっちりと用意して、安堵からのさらなる恐怖を演出すること。悲鳴をあげてメニューを見れば、そこに書かれているのは3時間パック、6時間パック、12時間パック、24時間パック。倍々ゲームで拷問の時間が増えていく恐怖に、あぶら汗が止まらない。パックされているのは自分だ、という感覚になるそうです。
 色々な人がいるものですが、自分とは正反対で面白いです。こう考えると、私はむしろ閉所を異様に好んでいます。一畳半のトランクルームに住んでいた事もあります。そのため、マンガ喫茶のブースに入ると落ち着きます。約束の地を見つけたような気分になってきます。それにマンガを読むのも好きだから、定期的にマンガ喫茶に行っています。真夜中の静かな店内に空調の音だけがひびいているのが安心するのです。時々、どこかのブースのおっさんがドラクエの打撃音みたいなくしゃみをします。デクシュッ!これもまたいいのです。

タピオカ♪♪

2021/01/27 15:35|コメント:0件

プラスチックカップの底に沈むタピオカを見つめながら思いました。
 私はタピオカの流行と距離を置こうとしましたが、挫折しました。冷めた目でやりすごすには、タピオカはもちもちしすぎていました。ストローで吸いこむ瞬間が、たまらないです。透明なストローの内側に、タピオカが詰まって並んでいる。ストローの中で行列を作り、吸い込まれることを待っている。私はこの状態を、タピオカ待機と呼んでいます。
 宇宙から見れば、人類もタピオカも似たような粒。しかし今の私は人間としての形状を持ち、タピオカはタピオカとしての存在を生きています。もしかしたら、タピオカの群れも前世では人としての自我を持ち、人としての苦しみを生きた時代があったのかもしれません。
 私も来世は、透明なタピオカに生まれたい。
 しかし、そうしてタピオカへの転生を願っても、トイレを汚した罰として、消臭剤に生まれ変わることになるかもしれません。トイレに置かれた消臭剤の一粒一粒が、前世でトイレを汚した人間かもしれません。
 ある者は尿を放置した。ある者は一歩前の貼り紙を無視した。いまや彼等は透明な粒となり、小さなプラスチックケースに収容され、トイレの悪臭を吸い込み、少しずつ萎びてゆくだけの生涯は悲しいです。
 タピオカに生まれ変わるには、本当に心を透明にして、人生を終えなければならないとしたら、釈迦は今頃タピオカとなり、ミルクティーという安寧の底に、深く沈んでいることでしょう。